VOICE

FRUEにいる大きな生きもの | 松永良平《FdF2021 POST-COLUMN》

2021年11月6日、正午。THE HALLのスタンド席に腰掛けたタイミングで、ちょうどやけのはらがステージに現れた。2021年のFESTIVAL de FRUE(以下、FRUE)、THE HALLのトップバッター。まだ客足はのんびりとしたもので、いまは呼吸を整える時間というところだろう。

フロアにはまだ観客は数えるほど。前方にはディスタンスの表示代わりなのか、小さな輪が整然と並べてあった。あの内側に立ちましょうってことかな。コロナ禍以降のライブスペースは、スタンディングの場合、床になんらかの印をテープでつけていることが多いが。たいていはマス目、もしくはX(バツ)マークだ。FRUEは、Xじゃなくて◯(マル)なんだと思った。深い理由はないのかもしれないけど、バツじゃなくてマルなのは、とてもこのフェスらしい。

しばらくやけのはらのDJを見ていたら、楽屋口からTシャツ姿でつかつかと歩いてくる人が見えた。テノ・アフリカ(Teno Afrika)だった。南アフリカで生まれた新しいリズム、アマピアノの使い手であるテノは、入国後2週間のホテル隔離を受け入れ、今回のフェスに参加した。もうひとりの海外アーティスト、サム・アミドンも同じく2週間隔離を受け入れた。ひさびさに音楽が空間を鳴らす場所に出て来られたことがうれしくてたまらないんだろうな。だって彼の出番は今日のいちばん最後、いまから13時間後の深夜1時からなんだから。

スタンド最前列に座ったテノは、やけのはらのアンビエントでオブスキュアな音源を駆使したDJをしばらく眺めていた。ぜんぜん違うなと感じていたのか、おもしろいと感じていたのか。それはわからないけど、ぼくが座っているところからは、テノがやけのはらに向けた視線がフロアを横切る対角線のように見えた。つまり、今日1日のFRUEで鳴る音楽の端から端で最初とラスト。これからできる冒険の可能性をどこまで広げられるかを、このふたりが担う。そんな見取り図を最初に提示してもらった気がした。

Teno Afrika

butasaku、Shohei Takagi Parallela Botanicaが終わる頃にはフロアもスタンドもほどよく埋まりはじめた。このTHE HALLは、〈つま恋リゾート彩の郷〉のイベントホールとして長年使われてきた施設だ。山の坂を利用して作ったカタパルトのような構造をしていて、ステージとフロアが谷底になっている。屋根があるのでオープンエアではないが、客席から見て右側と後方が大きく空いていて、そのおかげで“谷底”にいても妙な閉塞感が生まれない。

ステージには大きな布を使った舞台デザインが施されているものの、よく考えたら舞台美術といえるのはそれくらいだ。あとは二色ほどの照明を効果的に使い分けるだけ。その照明も、昼間まだ明るいうちはほとんど使われない。
だが、一度でもこのTHE HALLを体験した人なら、わかってもらえると思う。この場所は、1日のうちにどんどん姿を変える生きもののようだと。特にこのフェスが行われる秋なら、4時をまわればフロアはどんどん表情を変える。西日のオレンジ色が差し込んで、やがてじっとりと暗い闇に包まれてゆく。野外フェスならつきものの変化かもしれないが、このTHE HALLにいると、大きな生きものの胎内で、次々に登場する音楽を聴きながら時間の経過を奪われてゆくような錯覚すら生まれる。もしかしたら、自分が聞いているのはもはや音楽ですらなく、この生きものの咀嚼音だったり、イビキみたいなものなのかも。だから、余計な演出なんて要らなくなってしまうのだ。2日間のTHE HALL全アクトを見て、すこしも疲れなかったのは、この生きものと共振できたからなのかもね。

GEZ@N experimental protozoa set
Terry Riley with Sara Miyamoto

サム・アミドンのソロ・パフォーマンスも素晴らしかった。バンド編成だときっともっと現代的なアプローチも見られるのだろうけど、ギターやバンジョーを持ち替えながらの歌と演奏に引き込まれた。すごい技術だからというより、技術と才能のなかに彼のたどった道や暮らし方がちゃんと反映されているから魅了されるのだ。“アットホーム”という言葉は穏やかな温もりを表すのに使われるけど、彼の場合の“アットホーム”は、才能を包み隠さずあらわにすることでもあった。彼の本気の“アットホーム”が見られる場所は、世界中でここだけだったかもしれない。

サム・アミドン

終演後、サムとの共演を終えた角ちゃん(角銅真実)と、明日の自分のライブでもサムがゲストで入ってくれたらいいなと話していたら、そのうちサム本人も現れ、するすると「Lullaby」での共演が決定した。こういうことがFRUEではすんなりと決まってしまう。もともとセッションやインプロが得意なミュージシャンを内外から呼んでいるからとも言えるのだろうけど、おもしろいと感じるのは、こうして決まってゆくプロセスにまつわる空気感だ。つまり、マネジメントを通したり、綿密な演出の打ち合わせをするよりも、あくまで「やりたい」が先行する環境作り。

角銅真実 パフォーマンス時、サム・アミドンとの共演の様子

そういえば、2年前にトン・ゼーが出演したとき、終わりの時間は明確に設けていないと聞かされて驚いた記憶がある。もちろん、次の出演者のセッティングにある程度の時間は必要だが、基本的にはすべての演奏は可能な限りオープンエンドなのだという説明だった記憶がある。タイムテーブルは存在していても、そこで誰かが誰かの行動を縛るのはナンセンス。この生きものが喜ぶ音楽のためになることであればぜひどうぞ、という感じか。

それは、ぼくがFRUEに感じるいちばん特殊で、いちばん自然な法則でもある。一般的なロックフェスからいちばん遠い顔ぶれで成立しているし、ゆったりしすぎてるフェスかもしれないけど、ある意味やっていることはいちばん人間的で、自然と人を思う気持ちが芽生え、見知らぬ者同士の集まりなのに、高度な自治が生まれてるとすら感じる。

ディスタンスのために用意されたはずの輪っかがいい例だ。子どもたちによってフラフープになり、投げ輪になり、2日目にはついに“ケンケンパ”ができるフィールドになりと、姿をどんどん変えていった。テリー・ライリーが始まる頃には見えなくなっていたから、そのまま音楽虫になってどこかへ行ってしまったのかも。FRUEの音楽が人を変え、人によってFRUEも形を変えてゆく。そういう変身の自由さもまた、本当にFRUEらしさそのものだ。

GRASS STAGEとTHE HALLを行き来するゆるやかな坂が好きだ。坂を登っていくと、右手にイベントホールが見える。本当に山で育った巨大な生きものみたいだ。演奏をしていたら、窓を通じてピカピカと体内が光る。音楽が鳴き声みたいに聴こえてくる。みんな一度この生きもののなかに入ってみたらいいのに。

2021年12月 松永良平(リズム&ペンシル)

<松永良平(リズム&ペンシル)プロフィール>

1968年、熊本県生まれ。ライター/編集。著書『ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック』(晶文社) 発売中。