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FESTIVAL de FRUE 2021 雑感 | 大西穣《FdF2021 POST-COLUMN》

初日の昼頃、会場に到着した。遠くでスピーカーから発せられたMCが響く。普通のならば、人で賑わいはじめ、フェスがフェスっぽくなる時間帯だ。しかし、予想に反し昼間から長い夜を思わせるようなステージの連続だった。夕刻に演奏されたShohei Takagi Parallela Botanicaも、日が暮れて異彩を放ったGezan(GEZ@N experimental protozoa set)、悪魔の沼、Teno Afrikaと圧倒的に夜感を演出するアーティストが続く。

この日の印象を決定づけたのは、カフカ鼾のアブストラクトなパフォーマンスだった。石橋英子はキーボードを主に単音で演奏していた。石橋は特定のリズムやメロディーのパターンに安易に身を委ねず、注意深く音をチョイスしていく。音の流れは緊張感を伴って形を変え続ける。全体の静謐なトーンを保ったままで、山本達久のシンバルやジム・オルークのエレクトロニクスが、一定の音色のバランスのもとで、流れを作っていく。ピアノのリズミカルなリフがサンプリングされ、鋭利な音響と交わるときにはシュルレアリスム絵画のような幻想的な美が煌めく。やがてコード的音塊が低音部から高音部へと連続して鳴らされ、即興に展開感が加わる。大まかな流れが完成されたように感じたとき、ゲスト出演者に坂田明が登場した。彼のフリーキーなサックスは、真夜中に相応しかった。石橋も坂田の2人は、氷と炎が絶妙に相対して交わった。山本のドラムの連打もオルークのノイズも坂田を尊重しながら盛り立てる。ほとんど坂田のバンドなのではないかと思うほどの相性の良さだ。やがて石橋はアルトフルートをやわらかな旋律で吹き出し、サックスの旋律と融和すると、緊張感がほぐれ、終盤へ至った。良い即興音楽には、通常の曲を演奏するより内的なロジックがある。それが会場に共有されていく。終演後のオーディエンスの喝采が強く印象に残った。

そんな中で、爽やかな昼間へ一瞬で変貌させたのがサム・アミドンだった。躍動するリズム、体験したことのないような歌と演奏の立体的なダイナミクスの妙に、冒頭から客はじっと耳を傾ける。サムは一流のショーマンだった。2曲目でバンジョーからアコースティック・ギターを持ち替えたり、3曲目では大幅に声量をあげて、歌手としてのポテンシャルの高さを見せる。バンジョーで激しいスラップのような奏法やフィドルの特殊奏法でノイズを出し、オーディエンスを歓喜させる。MCでは、フォーク・アンソロジーの編集で有名なハリー・スミスや、バンジョーと鉄道の関係を語り、フォークの歴史的な文脈を語ったり、アーサー・ラッセルやミルフォード・グレイヴスに対するリスペクトを示し、それぞれ彼らに因んだ曲を演奏した。フォークを基礎とするシンガーが、実験音楽やジャズの先達に対して言及し、彼がアメリカ音楽を全体としてどう捉えているか、少しわかった気がした。コーラスの呼びかけに応答した観客に「Beautiful Singing!」と褒めながら、終始レベルの高いパフォーマンスで場を盛り上げた。

2日目は、大きな会場では初めて体験した角銅真実。フェスでも冒頭からリズムの反復に頼らずに音を聞かせる、というエクスペリメンタルポップの美学が徹底されていたようで、サム・アミドンのゲスト出演曲以外、グルーヴで安易にノせないのが印象的だった。例えばファンには耳馴染みのあるだろう「December 13」や「寄り道」なども、自在に拍子のアレンジを施した上で、さらりと自然体で歌う。根底には、ピアノでワルツを弾いても感じられた抜群のリズム感覚と、アコーディオンや声などを使ったアトモスフェリックなテクスチャーの共存があった。マリンバを叩いても、囁くような歌声や吐息を発しても、精緻に彫刻された空気の波が美しく迫ってくるような感覚があって、自然に会場の耳は誘導され集中してしまう。そこには鮮烈な清々しさがあった。

バッファロー・ドーターは、会場の音響的特性を考え抜いただろう、エンジニアzAk氏の活躍もあって、ロックの立体感を伴って登場した。しかし彼らのバンドは角銅と同じように、踊らせない。それでも、4つ打ちメインのシンプルなリズムが続く。いわゆるポストロックの複雑なリズムは全然見せないけれど、音色のセンスが研ぎ澄まされた20年前の曲が今も新鮮であることに、彼らの音楽の持つ芯の強さを見た思いになり、サム・アミドンはルーツ音楽を探っているが、個人的に前から影響を受けてきた彼らも実はルーツを持った音楽なんだな、という不思議な感慨に耽った。

巨匠テリー・ライリーは、この日はNord Stage 3を使っての演奏になった。黎明期の電子音楽も通過している巨匠は、当然ながらシンセの特性を熟知した音色作りを行っていて、途中でそれらを切り替えていき、自由自在にレイヤーを重ねていく。杖をつき足元がおぼつかない老齢であるのが信じられないほど、ステージ上では両手を独立させながら存分に即興演奏を繰り広げる。さらにライリーの弟子である宮本沙羅の、音に対して非常にゆったりとした舞は、音楽の魅力を増幅させる儀式性を発揮し、ライリーの音楽の精神性を存分に客席へ伝えてくれるようだった。どちらかというと公演の内容は西洋音楽/ジャズ寄りのファンタジー感のある演奏に寄っていたが、やがてライリー自身による、独特の音程感をもった北インド古典音楽の師匠プラン・ナート譲りの独特の歌唱が始まる。高速アルペジオの繰り返しにも、ドローンの持続にも感じるのだが、特にドローンをピッチベンドをぐにゃりと変化させ続けると、サイケデリックな雰囲気を充満させる。思い入れが詰まっているだろう奏法一つひとつを繰り出して、周りの雰囲気を一変させていくのが印象的だった。

後半は2人に、勝井祐二、大野由美子、サム・アミドン、角銅真実が参加してのフリーセッションとなった。粘り気のある大野のシンセベースは、直前までステージを沸かせたバッファロー・ドーターが入り込んだような面白い錯覚を起こした。サム・アミドンが今までない優しい音色を聴かせたりし、ライリーと宮本が歌い合うと、独特の祝祭感が醸し出される。お互いを尊重しあった即興は展開を見せながら存分に続いた。やがて長尺のパフォーマンスにも疲労感を見せず、巨匠はにこやかに挨拶して締める。幸福な余韻がいつまでも会場に漂っていた。

全体的を通して見ると、通常のフェスにあるような安易なグルーヴに頼り踊らせたり、どんちゃん騒ぎに任せたものは最小限に抑えられ、初日は全体的に夜の暗さの質感を通して客を落ち着かせ、そして2日目は角銅に代表される、体を揺らせず個々のリスニングに誘導する音楽的実験や、テリー・ライリーの回におけるお互いを尊重を通した即興が目立った。それは現在創造的な音楽ができるギリギリの可能性を示してくれたようでもあり、またその中で生の音楽の影響力を確認できた年になったと思う。長期的にわたるパンデミックの厄災と対峙する意思のようにも感じられた2日間だった。 

<大西穣 プロフィール>

バークリ音楽大学卒。NYで活動後帰国し、国際的なCM音楽会社で働く。主な演奏楽器はキーボード。いくつかの翻訳書を出版したほか、『ヱクリヲ』『ユリイカ』『BRUTUS』『Intoxicate』などに寄稿。