「しっかりやろう」
FESTIVAL de FRUEに通い始めて3年めの2020年、もともと友人だったFRUE主催コンビ(山口、吉井)にそう言った。1日目にあるアーティストの出演が急遽キャンセルになり代打の出演者が決定したものの、その告知がTwitterでしかされていなかったからだ。こういうことは抜かりなく告知したほうがいい、なぜならイベントとは「そういうものだから」。そんな話をしたことを記憶している。気がつけばウェブサイトやSNSでの情報発信、そしてこのVOICEシリーズを企画編集するスタッフとして動くようになっていた。
そんなわけでこれから書くのは、4年間一ファンとしてFRUEに通い続け、数ヶ月間スタッフとして内部で起きていることも垣間見た結果、いろんな意味で垣根なく俯瞰した景色にまつわるテキストである。
そもそも、私はいまだにFRUE以外の音楽フェスを知らない。他のフェスに行かない理由が特にあるわけではないが、2018年以来FRUEにコンスタントに参加し続けている理由だけははっきりしていて、それは未知を期待するほど還ってくるもの、そしてフェスの外を出ても残るものが大きいから。既知の音楽を期待して行っても、結果的にその他の音楽の衝撃がそれを相対的に凌駕してしまう。だから敢えてなんの事前調べもせず全てのパフォーマンスを体験した暁に、長らく日常のルーティンとなった音楽は数知れず、現在進行形で蓄積されている。日常に深く残る音楽ほど予想外なかたちで出会う。
「予想外」といえば、2021年の「ある流れ」ほどその言葉を色濃く象徴するものはないだろう。とっかかりを作ったのは1日目に出演したサム・アミドン。時折演奏のなかで、観客に合いの手としてあるフレーズを歌うよう促し、ホール全体が音楽の一部となる時間を作った。
強弱の質感が一体となった観客らがパフォーマンス終了後にホールを後にし、方々へ散りゆく流れのさなかに突如現れたサンバチーム、ブロッコ・シズオカ。頭上を切り抜ける笛の高音と内臓にずしんと伝わる太鼓が刻むサンバビート、そして全長3メートルはあるガイコツの人形を携えたパフォーマーたちの周りにいる人々は、サンバを踊ったことがなくてもそのリズムに身体を巻き込まれ動きを引き出されていく。飲食屋台の前方にいたパフォーマーらと観客たちは、そのまま坂を上がりエントランスの手前にあるマーケットエリアへ、何か大きなものにみるみる引き込まれていくように進んでいった。
まるでブレーメンの音楽隊のようにともに能動的に坂の頂上へ移動し、祭りを欲するエネルギーが健やかに咲き出し〈振るう〉。音と人の熱が完全に合致した光景は、ある意味正式なアクト以外でベストハイライトだったかもしれない。
その後続いたGEZ@N experimental protozoa set。リハーサルの時点で本番さながらのエクストリームさで攻めてくる彼ら、今年はマヒトゥ・ザ・ピーポーとバグパイプを演奏するイーグル・タカのホール通路からの鮮烈な入場で開始した。その後のパフォーマンスが熱を帯び始めた頃だろうか、先ほどブラジルサンバの時にいたガイコツ2人が観客の群れの中に入って踊り始めたのだ。会場がさらに熱狂的な一体感を強めたのは言うまでもない。
実はこれ、主催側にも全く申し合わせのない完全な「ゲリラ演出」だった。あとで現場に居合わせていた主催の山口と話したところ、さすがにガイコツ登場の瞬間は「青ざめた」が、ここしかないというタイミングで出てきて踊り狂う彼らの様子を見つつ、そろそろ止めに行こうとしたら「ちゃんといい感じで引っ込んでくれた」そうだ。「ガイコツたちちゃんと音聞いて踊ってたから、いいやって」粋な計らいを提供してくれたガイコツたちをGEZANも咎めることなく受け入れてくれてたし、サムからの流れですっかり感覚を開ききった、その場にいた全ての人たちがこの状況と同化していた。今年の大トリ、テリー・ライリーが最後に見せてくれたインプロセッションは、感覚を開ききりキャパシティを最大限にした者同士だとどんなインプロも凄まじい調和を成す、ということをまさに証明してくれたわけだが、これはステージ上の話に限ったことではないと、この「ある流れ」を通して体感した。FRUE史上でも伝説に残った数時間だったと思う。
主催メンバーにとってですら非予定調和なことが積み重なってもよしとなってしまえるのは、FRUEの特異性だ。別記事で松永良平さんも寄稿してくれた通り、サム・アミドンと角銅真実のセッションも楽屋裏の何気ない提案から決まったことであり、なんだかしっかり抜かりなくやるために事前に隙なく用意されたフォーマットやお作法が無効化してしまい、よい方向に自走するしかない魔法がある。いつか「これはこういうものだから」と「しっかりやろう」なんて言った自分が頑なでかっこわるく思えてしまうくらい。
この魔法はFRUE発起人である山口のスタンスによるところも大きいと思う。身内の立場で言ってしまえば、正直、「良くも悪くもゆるい」。もっとしっかりやれる、と期待して口うるさくなってしまったりもする(いつもすみません)だから決して持ち上げるつもりはないのだが、ひとつ確実に言えるのは、観客の中に溶け込み、落ちてるゴミをこまめに拾ってたり、ごくたまにいる悪ノリしているお客さんに自ら声をかけて肩に腕をまわし、落ち着くよう諭している山口の、一個人としてその場に介入していく温度がとてもニンゲンくさくて血が通っている、ということ。
人間はもともと隙だらけ。予定調和だけで生きてけるなんて奇跡だよなあ。だからこそ〈奮い〉立つための余白が必要。そんな当たり前のことをFRUEに参加するたびに思い出し、身を引き締める。
FRUEはミュージシャンだけでなくフードやマーケットの出店のあり方もユニークだ。その要因のひとつに、出店条件が一律でなく各出店者が「表現者」であれる状況づくりのプロセスがある。裏の話をすると、たとえば飲食店の屋台造作などもFRUE側が予算を持ち出店者と相談しながら仕上げていく。「料理人が料理に集中できる状況を作りつつ、彼らのアイデンテティを食以外でも〈揮(ふる)う〉状況を作りたい」というフードエリアのディレクター松橋の先入観のなさゆえのエクストリームさが為せる技と言ってもいいだろう。費用対効果を考えると相当思いきった関わり方ではあるが、通常であれば画一化されたシステムや予定調和で切り捨てられてしまう可能性に猛進していく主催側の姿勢に出店者も「場の介入者」として心を開いていく。常連出店者ともなるとまさに戦友だ。こういった関係の積み重ねは、確実にフードの目覚ましいクオリティにつながっている。
特にホール上部のマーケットエリアは出店者全員で垣根なく空間を分け合うような配置になっているところもある。常連出店者は互いの店を往来して来年に向けた話を交わし、ミュージシャンも純粋に客として他のパフォーマンスを楽しんでいる光景はもはやFRUEお馴染だ。今年FRUEに初めて足を運んだという知人は、初対面のある出演者とその友人と芝生に座りながらたわいのない世間話に花を咲かせたそうだ。そういった人間同士の姿がこの規模のフェスにあると、居合わせる他の人々の意識も影響されないわけがない。
主と客、食と音楽、その他諸々、全ての垣根が薄くなり流れ出して溶け合う空間は、その場にいる人の精神が循環するよう。それぞれがまとう「立場」をうろこのように〈篩(ふる)い〉落とし「祭りをつくる一員」という本質的な役割だけを残すのがFRUEという場の力だ。
さて、お気づきの方もいるかと思うが、ここまで見出しに用いてきた漢字は「FRUE」命名の由来である。
「FRUE(フルー)」には、勢いが盛んになる〈振るう〉、気力を充実させる〈奮う〉、能力を発揮する〈揮う〉、ふるいにかけてより分ける〈篩う〉、ふるえる〈震う〉などの意味があります。(中略)われわれの潜在意識下にある〈ふるう〉というイメージを刺激し、日常へと浮かび上がらせることができたら、世の中を賑わす活力になるのではないか... 《FRUEウェブサイトより》
潜在意識というと個々人の内部で完結するもののようにも聞こえるが、私は地球上のすべての生命体は潜在意識下で繋がっていてひとつ、という考えを信じてる。〈ふるう〉イメージは個人の感受性に起きている話にとどまらず、むしろ祭りの参加者=介入者=「つくりて」全員に震える波として共鳴しているものだと言える。誰もが「祭りのつくりて」となりうる端緒の〈震え〉はあまりに強力で、祭りを終えた後もFRUEはつま恋の外にのびだし、日常に地続きで還元される。
FRUEの撤収を終え帰路についた月曜日の夜、商業施設が乱立し煌々と光る渋谷の街に降りた。掛川に向かう前、クリスマスを急ぐ前にハロウィンが用無しになったなんにもなさを染み込ませたいのに...と感覚が閉じ気味だったことを思い出す。でも帰ってきた今、マニュアル調子のコンビニ店員、疲れ顔のサラリーマン、誰かと同じ髪型と化粧をした女の子にも、予定調和の外で〈ふるえ〉を受け入れる余白がどこかに潜んでるんじゃないか、そうしたら表情や声が今より輝き出すんじゃないかと信じて街を歩くと、喧騒を穏やかに見守れるし歩幅も大きい。彼らにもFRUEに来てほしいなあ。この感覚はいつか今より薄れて、また色んなうろこを纏い重ねてしまうかもしれないけど、私は大丈夫だ。FRUEを知っている私たちは大丈夫だ。いつか空が高かった頃に感覚を開いていたことを忘れずに、また来年の秋まで過ごしていよう。
東京生まれ。2-10歳米国育ちのち神奈川育ち。言語化や情報伝達にまつわる仕事に従事する。2022年春、自らの身体感覚・言語感覚にまつわるエッセイ集「言葉は身体は心は世界」を上梓予定。